障がいを乗り越え、「世界一面白いサッカー人」になる

タイでサッカースクールを開き、タイ在住の日本人の子供たちにサッカーを教える相原豊さん。生まれつき左手がないという障害を持ちながらサッカーに取り組んできました。「世界一面白いサッカー選手」を目指して単身、タイに渡った相原豊さん。なぜ日本を飛び出し、海外でサッカーをしているのか。その人生に迫りました。

目次

一度あきらめた夢

サッカーを始めたのは小学校2年生の時。兄の影響でした。Jリーグのサッカー選手になることを目標に小学校、中学校、高校とサッカーに明け暮れていました。高校の時は部活の後1時間半、自主練習をしていました。

生まれつき左手がないことで人から「何か影響があるの?」と聞かれることがありますが、最初から手がありませんから、自分でも影響があるかはわかりません。当時はJリーグのサッカー選手になるのが夢。高校で全国大会に出られればサッカー選手になれると思っていて、それで県大会で負けてしまった時夢がなくなってしまいました。そこで高校卒業後は就職するという道を選びました。

卒業した後に、地元の神奈川県に社会人向けのサッカーリーグがあり、そこから関東リーグ、JFL…と上がっていけばJリーガーになれることも知りました。そこで21歳の時には神奈川県の県リーグでプレーをしていました。

転機になったのは22歳の時です。神奈川県にあるサッカースクールの指導者との出会いでした。その方は南米のブラジル、エクアドル、コロンビアの3ヶ国でプレーをした経験がある方でした。仲間にはウルグアイやアルゼンチンでサッカー選手だった方もいて、その先輩たちと一緒に私もフットサルを楽しみました。フットサルの後、みんなで食事をしながら、ブラジルや南米でサッカーをしていた話を聞いたのです。その話がとても面白くて、憧れを抱きました。それまでは「サッカー選手という職業になること」が私の夢だったのですが、「先輩たちのようにかっこいい大人になりたい」という思いを抱くようになりました。

海外で夢を叶える

かっこいい大人として、先輩たちのようになりたい。サッカースクールの指導者の先輩に憧れて、自分でもサッカースクールを開いてみたいと思いました。選手ではなくサッカースクールで教えることで、サッカーを仕事にできるとも思ったからです。

ただ、スクールを開くためには自分も一度サッカー選手になった方がいいだろうということで、Jリーグの色々なチームに電話をかけて自分を売り込みました。しかし、電話では全く取り合ってもらえず、練習場に足を運んでみたら警備員さんに止められる…ということもありました。そして、私は考えたのです。

「日本でサッカー選手になれないんだったら、海外でプロサッカー選手になればいい」

そんな時、偶然日本で知り合ったタイ人から、タイのサッカークラブを紹介するという話をもらったのです。彼が「大丈夫、大丈夫」なんて言うので、その言葉を信じてタイ行きの飛行機を確保したのですが、結局はサッカークラブの紹介はしてもらえませんでした。でもチケットは取っているのでとりあえずタイに行きました。22歳の時です。タイ語は話せない、できるのは相づちくらい。すると、そのタイ人の友人だという女の子が現れました。片言の日本語が話せて、「助けてあげるよ」と話していたので、その言葉を信じてついていきました。彼女の家に泊めてもらえることになって、その家の前にフットサルコートがあったのでそこでタイ人のフットサルに混ぜてもらいました。

何か目立つことやってやろう。そう思って、試合では必ず点を取ることを目標にし、足技を繰り出していたら、当時日本人で世界的なサッカー選手だった中田英寿さんにちなんで「ナカタ」と呼ばれるようになりました。そしたら仲間がサッカーチームを紹介してくれて最初は練習生で入って、練習生として出場した試合で点を取ることができて、契約することができました。タイのサッカーリーグでは2人目のプロ契約でした。

タイでプロサッカー選手になれたので、今度はもっと面白くなってやろうと、バングラデシュにいきました。タイでプロサッカー選手になったのと同じやり方でストリートサッカーから始めて、チームを紹介してもらって契約。そのチームにアフリカのウガンダという国の選手がいて、ウガンダでもサッカー選手になりました。

左手がないけどプロになっている。だから、すごいと言われる。障がいがあることはチャンスだと思っていました。

海外を転々として3年。これで「サッカー選手になる」という夢をかなえた私は日本に戻り、海外に行くきっかけを作ってくれた方のサッカースクールでアシスタントコーチを務めることになりました。

将来サッカースクールを開くなら、どんなことをしようか、と考えた時、自分自身が障がい者だということを考え、何か障がいのある方にサッカーを教えられないかと思いました。例えば視覚障害がある人がプレーする「ブラインドサッカー」や車いすサッカーなど障がい者の方がプレーできるサッカーはいくつかあります。その中でも聴覚に障がいのある聾(ろう)の子供たちにサッカーを教えてみようと思いました。健常者の方と同じくプロサッカー選手になれると思ったからです。

最初は日本の聾(ろう)学校にお願いしたのですが「難しい」と言われてしまいました。それならば海外ならできるのではないか?と思っていた時に自分が最初にプレーしたタイで、日本人学校ができるというお話を耳にしました。日本人学校ができるというタイの街は、シラチャという街。首都・バンコクから100キロくらい離れた場所にシラチャという街があります。シラチャには自動車メーカーの工場など日本系のメーカーがたくさん立ち並んでいます。

日本人の子供たちがたくさんいるので、その近くにサッカースクールを作ってみよう、ということでシラチャで「ユタカフットボールアカデミー」を立ち上げました。それが2009年、30歳の時です。今は70人くらいが通っていて。新型コロナウイルスが流行する以前は150人ほどが通っていた時期もあります。

最初に考えていた、聴覚に障がいのある子どもたちへのサッカー指導についても、2011年からタイの聾学校で行っています。そこからタイと日本のろう学校の交流事業にも発展し、Jリーグのチームの支援も頂いています。タイのろう学校とタイにある日本企業の事業所をつないで、ろう学校に通う子どもたちの就職のサポートなどもしています。

現在は、サッカースクールの他に、タイのプロフットサルクラブを経営しています。障がい者が活躍できるプロフットサルクラブ”として、耳がきこえない聾(ろう)の選手やスタッフを数人雇い、活動しています。耳が聞こえなくてもサッカーができる、象徴的な場所でもあります。私もクラブのオーナーとして、今でもプレーさせてもらっています。

応援される人に

私は「世界一面白いサッカー選手」を目指していました。今は主にコーチですから「世界一面白いサッカー人」を目指しています。昔から目立ったり、人を笑わせたりするのが好きでした。僕を見て笑ってほしい。目立てば人が集まって、笑いが生まれる。逆に私も人が集まるとそこからチャンスをつかめたこともありました。

子どもたちには「一生懸命」と「コミュニケーション」の2つを大切にしてほしいと伝えています。自分自身の経験からも、一生懸命さとコミュニケーション力があれば、人から可愛がられ、人に助けられる、そういう人間は、何とかなると考えています。

あと伝えているのは、「頑張ることを教えるよ」ということ。実は「頑張る」ということは基準がありません。足が速いか・遅いかというのは「何秒」という基準がありますが、「頑張る」ということにはありません。ですが子どもたちには「誰か関係ない人があなたを応援してくれるようになったら、それが『頑張った』ということなんだよ」と伝えています。

これからも、サッカースクールとフットサルクラブの経営という2つの軸を大切にし、今やっていることの幹をもっともっと太くしていきたいと考えています。

写真提供=相原さん

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

東京大学教育学部卒業後、全国紙の新聞記者として広島総局・姫路支局に勤務し事件事故、高校野球、教育、選挙など幅広い分野を取材。民間企業を経て、2021年に株式会社オーナーを起業し、本教材「探究百科GATEWAY」を開発し編集長を務める。

目次