宮城県石巻市の一般社団法人日本カーシェアリング協会の吉澤武彦さんは、2011年の東日本大震災をきっかけに石巻に拠点を作り、「車」を通じた支え合いの仕組みを作ってきました。その原点には1人の恩師との出会いがありました。何をきっかけに被災地支援やコミュニティ・カーシェアリングを始め、震災の経験をどのように全国へ発信していまるのか、お話を聞きました
人生の師匠との出会い
私は兵庫県姫路市の出身で、ずっと関西地方で暮らしてきました。会社員として働きながら、純粋な遊びサークルを立ち上げて、仲間と山や川に遊びに行くとか、面白いこと、楽しいことをやっていたんです。いつの間にかそのサークルは200人くらいの規模になっていました。じゃあ次は何か「意味のあること」をということで、講演会を企画するとか、チャリティー活動や色々な立場の方が集まる交流会を開くことをしていました。
そんな時、2007年に友達が開いたイベントで、「山田和尚さん(バウさん)」というすごい方がいるということを耳にしたんです。1995年の阪神・淡路大震災の時に「神戸元気村」という団体を立ち上げ全国から集まったボランティアたちを束ねて活動していた。それからオゾン層を保護するため、全国の自治体1000か所以上を1人で回って、フロンガスを回収する仕組みを整えた…そんなお話を聞いたときに衝撃を受けました。
イベントから家に帰った私は、バウさんのホームページを調べ、そこにあったメールアドレスに連絡してみました。すると、バウさんが当時住んでいた埼玉から大阪まで会いに来てくれたんです。バウさんの話をもっと多くの人に聞いてもらうため、社会人サークルを通して50~80人規模の講演会「オンリーワン思いっきり生きろ」というテーマのイベントを主催し、バウさんと朝まで語り合いました。そこから、バウさんと一緒に活動するようになったんですね。
バウさんからはよく「コマになるな、タイヤになれ」と言われました。コマは漢字で書くと「独楽」、「ひとりで楽しむ」と書きます。くるくると1人で回っていても何も変わらない。タイヤのように周囲を巻き込め、風景も場所も変えながら動けという教えでした。
東日本大震災の支援で石巻へ
その教えを行動に移す時は、突然やってきました。2011年、東日本大震災です。私は震災の1週間後から福島県の方々を支援していました。その後バウさんから、「被災地に車を持っていく活動をしたらどうか」というアドバイスをもらいました。
当時、津波で多くの車が流され、被災者の方は「生活の足」を失っていました。家を流され、車を買うことも難しい状況でした。私は被災規模が大きかったところであれば車のニーズも高いだろうと考え、石巻市に向かうことにしました。バウさんの仲間たちが石巻で活動していたつながりもありました。
石巻市では約6万台の車が被害を受けたとされています。まずは、車を集めることから始めました。企業を回り、寄付してくれる車を探しました。1か月かかってようやく1台めの寄付が決まりました。
車を通じて、人と人をつなげる
私は当時「車から何を生みだせるだろうか」と考え、探究していました。被災者の方に車を贈って「ありがとう」と言われることも支援の1つですが、もっと価値を生み出す方法を考えていたのです。
ヒントは、当時仮設住宅で聞いたお話でした。仮設住宅では、住民どうしのコミュニケーションが課題になっていました。仮設住宅の入居は抽選で決まっていたので、仮設住宅では知らない人たちと一緒に住んでいたからです。
そこで考えたのが「車を通じて、人と人とがつながる仕組みを作ればいい」ということです。これが「コミュニティ・カーシェアリング」の仕組みです。
仮設住宅単位や地域単位で車を共有(シェア)することによって、人と人とをつなげるという取り組みです。住民の方々で役割分担を行い、鍵の管理方法や車の予約方法を決めていきます。参加している住民の方は車が運転できない高齢者の方が多いです。
経済的に苦しいなかひとり暮らしのお年寄りがタクシーで病院にいけないという話を聞いたら、メンバーがその外出支援をするようになりました。カーシェアリングのことについて話し合う場を設けると、話題は移動の問題から、生活の問題に変化していきました。「ゴミが散らかっている」「近所の交流が少ない」という声が上がったんですね。すると、月一回のゴミ拾いやお茶を飲みながらの交流会が生まれました。
このような前例のない活動を続けていると次第に注目を集め、新聞やテレビで取り上げられるようになり、企業からの車の寄付も増えました。仮設住宅ではカーシェアリングを通して住民同士が一緒に買い物に出かけたり、日帰り旅行に行ったりするようなつながりも生まれました。震災から10年がたち、仮設住宅はなくなりましたが、現在も石巻では11地域約500名の方々がカーシェアリングに参加をしています。
被災地発の仕組みを全国へ
近年は毎年のように豪雨災害が起こっています。最近は災害が増えていますが、私たちは向き合わなければなりません。そして受け入れなければならない。私たちとしては、災害が起こることを前提として備え、いざというときに車を被災地に集め、必要な人にすぐに届けられるよう形を作っていくことが大事だと考えています。
災害が起こると現地に出向き、地元の行政と協働しながら、被災者や支援団体の方々に車を無償で貸し出す取り組みをしています。2018年7月の西日本豪雨では岡山県で、2019年10月の台風19号では宮城県丸森町などで活動していました。
車は現地で寄付を募ったり、石巻にある車を現地に届けています。そして、全国にいらっしゃるボランティアの方々も車の運搬に協力してくださいます。石巻から岡山、佐賀から石巻など遠距離でも運転してくださいます。「車を運搬することで役立つことができてよかった」と話してくれています。こういう風に多くの方が喜んでもらえる「機会」を用意することが大事だと考えています。
コミュニティ・カーシェアリングについても岡山県や鳥取県など10か所以上に広がっています。
私は石巻で活動を始めた当初から、石巻で生まれた仕組みを全国に広めたいと考えていました。それが、被災地や石巻にとって、一番価値があることだと考えていたからです。石巻の人達が自分たちの経験を語りながら、支援してもらった側から、支援する側に変化すること。それが最大の貢献になると思っていました。
仕組みと機会を作る
本当に相手のためになることは、支援するだけで終わることではありません。できるだけ「仕組み」で続くようにすることを意識しています。最初から、「何が大事か」「何が意味あるのか」を考えながらやりたいと思っています。
例えば東日本大震災の時、福島県で「炊き出し」の支援を行いました。ここでも一工夫を入れました。
当時、避難所は寒かった。みんなは温かいものを食べたい。ただ、私たちが温かい食べ物を配るだけでは、本当に被災地の方々のためにはなりません。物資を渡すだけになると、被災者が自立し続ける仕組みにはなりません。
そこで、炊き出しに使う食材や器具だけ集めておいて、避難所にいる方々に声をかけたんです。そして、皆で一緒に食材や炊き出しをして、温かいご飯を皆で食べました。こうなれば、後は避難所の方々が自分たちでできるように促すことができます。「もの」を提供するのではなくて、炊き出しという「方法」を伝えたのです。このように「仕組み」を作れば、ずっと続けることができると考えています。
「仕切り屋さんになるな」これはバウさんに言われたことです。全部仕切って何でもやると、人が育ちません。できるだけ皆が経験できるように促します。
自立を促すために意識していることは、決断を相手に渡すということです。決断をすることは、「やらされているのではなく、自分で動いている」という意識を持たせることに繋がります。自分で動くという意識は、ずっと続く活動につながると考えています。「自分の役割は何か?」を自分に繰り返し問いかけ、「やりすぎないように」サポートをしています。
「動く」ということを大切に
今は佐賀県にも支部を作って活動しています。これからは、車を寄付する文化を作っていきたい。例えばいらなくなった車を売ったり、廃車にしてしまうだけではなく、寄付するという選択肢を増やしていきたい。車を寄付するという新しい選択が当たり前になり、全国に根付いていってほしいと考えています。
これが定着することで、困っている人、災害の被害を軽減し、移動の課題を抱えた地域が良くなっていく社会を作っていきたいですね。行動を続ければ、理想の社会を作ることができるので。あとはそれを全部私がやるのではなく、新しい担い手を育てていき、どんどんつないでいきたいです。
これまでの活動では、「動く」ということを大事にしてきました。いろんなものを読んだり、教えてもらったりするだけではなく、自分の中の感性で味わい、ことばにすることが大切だと考えています。動いてみるとそれができるようになってきます。ぜひいろいろ動いてやってみてほしい。頭の中で何かやるというよりも、試しに何かをやってみたり、アイディアを形にしたり、現場に行ってみたりするとか、動きながら探究するということが大切だと考えています
(本の情報:国立国会図書館サーチ)