台湾に今でも残る日本文化

日本人に人気の観光地「台湾」。新型コロナウイルス流行前は、毎年約200万名の日本人が渡航していました。小籠包(ショウロンポー)やタピオカミルクティー等で日本にもよく知られている台湾ですが、実は日本とはとても深い関係があります。台湾で約2年生活をした筆者が台湾と日本の文化の違いや台湾と日本の深いつながりについて紹介します。

目次

日本と台湾の距離の近さ

台湾は東シナ海にある、約2,300万人が住む地域。沖縄からは非常に近く、年間を通して温暖な気候が特徴の南の島です。漢民族が多く住んでいるため標準語は中国語ですが、同じ中国語でも中国大陸で話す中国語と発音やイントネーションが若干異なります。半導体産業が盛んで、全世界で生産される半導体の約20%が台湾で生産されています。みなさんが普段使うスマートフォンやパソコンにも、台湾の半導体が使われているかもしれませんね。

台湾はとても温かい南国であり、5月から10月まで平均最高気温が30度以上の日が続きます。最も寒い1月でも最低気温が15度前後で、日本の様なはっきりとした四季の変化が少ない場所です。そのため年間を通してラフな服装で出歩く人が多く、夏場はスーツを着る人も少ないです。

台湾では小籠包(ショウロンポー)等の中華料理がよく食べられています。また、タピオカミルクティー等のドリンクショップが町の至る所にあり、飲み歩きをする方も多くいます。南国の気候を活かし、日本人が大好きなマンゴーやパイナップル等のフルーツが多く栽培されています。

また、オートバイに乗る人がとても多く、街中にはバイクが溢れています。高校を卒業するとオートバイを購入して乗るようになるのが台湾人の習慣で、二人乗りも許可されていることから家族や友人でバイクに乗る様子も多く見受けられます。

台湾の街中。至る所にバイクがある。後ろに見えるのが509mの高さを誇る台北101

政治への関心が非常に高いのも台湾の特徴です。台湾では直接総統(アメリカの大統領に相当)を選ぶことができる直接民主制を採用しています。国民党と民進党という二大政党が強い力を持っていて、4年に一度の総統選挙では投票率が7割近くにも及びます。

日本と台湾で大きく違うといえるのが宗教です。日本では神道と仏教が盛んですが、台湾では仏教と漢民族の伝統宗教である道教が主流を占めています。ただ実は台湾の道教のお寺の中の一部には仏教の仏像が見受けられ、混在している場所もあります。日本のお寺の近くに神社があることと同じ感覚ですね。また、人口の約4%がキリスト教信者でもあり、街中にキリスト教の教会も多く見受けられます。

台湾に残る日本文化

台湾は1895年から第二次世界大戦終戦の1945年まで日本が統治していました。日本統治前、台湾は当時の中国大陸の国である「清国」の統治下に置かれていましたが、日清戦争に勝利した日本は台湾の統治権を得ました。そこから日本人が移り住み、最盛期には約40万人の日本人が台湾で暮らしていたといわれています。

例えば、日本のみなさんにとってとても身近な高校野球と夏の甲子園。戦前の甲子園では、台湾予選を勝ち抜いた代表校も大会に出場していました。1931年の大会では台湾代表の「台南州立嘉義農林学校」が初出場で準優勝の快挙を達成しました。日本人、台湾人、そして高砂族と呼ばれた原住民の混成チームで、多様性のあるチームの絆が非常に注目を集めていました。この実話は「KANO 1931海の向こうの甲子園」という映画にもなっていて、当時の日本統治時代の台湾の様子が分かる素晴らしい作品なので、是非チェックしてみてください。

日本統治時代には日本語教育が行われており、中国語を話す方も多くいましたが日本語が標準語として使われていました。そのため現在ご高齢の台湾人の中では戦前の日本語教育を受けた方もおり、今でも流暢な日本語を話す方もいらっしゃいます。

当時各地に多くの神社が建てられていました。台北に当時あった「台湾神社」の前の通りは表参道と呼ばれていて、これは東京の明治神宮の前の通りと同じ名称が使われていました。台湾神社の跡地は、現在円山ホテルという台湾を代表するホテルに使われています。

円山ホテルの外観

街の区画整備、鉄道、ダム建設、公衆衛生、糖業(砂糖製造)等のインフラ整備も進みました。当時築かれた鉄道網やダム等は現在の台湾でも使用されていて、台湾の社会に深く根付いています。 また、バロック様式と呼ばれる西洋風建築や、温泉街の旅館等の日本建築が多く建てられ、今でも使われている施設も多くあります。台湾の国会議事堂と同じ役割を持つ建築「台湾総督府」は日本統治時代から使われている建物です。この建築を見るとどこかの建物に似ているなと思う方がいるかもしれません。

台湾総督府の外観

そう、東京駅に凄く似ていますね!台湾総督府は東京駅を建築した辰野金吾の弟子である、森山松之助が設計した建物。彼の様な日本人技師が当時の台湾に渡り、多くの建築を手掛けていました。台湾の歴史を学ぶことは、日本の近現代史への理解にもつながると思います。

日本統治時代の台湾についてこれまで紹介してきましたが、この時代に対して様々な意見があることを皆さんには知ってほしいです。当時の日本人が開拓した事により台湾の発展に繋がっている側面がありますが、当時の台湾人や原住民への差別や、日本兵として戦争に出兵した台湾人もいたことも、私たちは忘れてはいけないと思います。

こうした歴史的事実は見る側面によって様々な解釈ができ、台湾の方は人によってそれぞれ異なる意見を持っています。グローバル化が加速化していく現代、皆さんはこれからの人生で多くの外国の方と出会い、交流していくことになります。こうした歴史を基に皆さんがどういった意見を持つかは自由ではありますが、世界では同じ事実でも様々な見方を持つ人がいることを、是非覚えておいてほしいです。

関連)外務省ホームページ「国・地域」 台湾

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/index.html

台湾の温泉街にある日本風の旅館
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この記事を書いた人

群馬県前橋市出身、東北大経済学部を卒業して宮城県でインバウンドプロモーション事業に携わった後、台湾で観光マーケティング会社を起業。その後コロナを経て帰国し、宮城県丸森町のまちづくり会社の経営に関わる。現在は都内で経営コンサルタントとして勤務。

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