福島・湯本温泉。江戸時代から続く温泉宿が描く未来

福島県いわき市にある、いわき湯本温泉。その温泉に江戸時代から続く温泉宿「古滝屋」があります。その「古滝屋」の16代目・里見喜生(よしお)さんは様々なアイデアで温泉宿や地域を活性化してきました。湯本温泉のこれまでの歴史や、温泉宿の将来像についてお話を伺いました。

目次

歴史ある湯元温泉

 いわき市にある湯本温泉は、「日本三大古湯」と言われるほど古くから愛される温泉です。延長五年(927)の延喜式神名帳に「陸奥国磐城郡小七座・温泉(ゆ)神社」とあることが最も古い記録と言われています。江戸時代には湯治の名所や宿場町として栄え、現在も毎分5トンという日本有数の豊富な湯量がある温泉です。

 これだけの湯量を誇るのは、温泉が海洋深層水に由来するから。古滝屋の温泉は源泉かけ流しで、1万年前に真空パックされたものが地表に出てきたもの。太古の時代を経て、この新鮮な温泉に入ることができることはいわきの資源であり、宝だと思います。

 古滝屋は江戸時代の1695年の創業で、それ以来320年以上の歴史を歩んできました。私は代々続く古滝屋の16代目にあたり、住宅メーカーの営業を経て、1996年に古滝屋に入社。その後、父から経営を引き継ぎました。

ニーズを拡大、そして把握

 古滝屋に入社した当時、私は29歳だったのですが、当時は企業などの「団体旅行」が中心でした。会社のみなさんで旅行に来て、大広間で会食をして、そして帰っていく。たくさんのお客様に来ていただけるのはありがたいのですが、目の前のお客様に向き合えないとも感じました。もっと顔が見える関係でお客様と関わりたい。そこで個人のお客様に来てもらえるような宿を目指しました。「家族で」楽しめる宿、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんと両親、子どもの「3世代」で楽しめる宿。当時では珍しかった貸切風呂を作り、家族で温泉に入れるようにしました。また、子どもに楽しんでもらおうと、温泉におもちゃを浮かべて入れるようにしたり、絵本を借りられるコーナーを作ったりしました。

新型コロナウイルス流行後は旅先で仕事をする「ワーケーション」のニーズもあり、ロビーを改装してWi-fiや電源が使えるようにしています。

いくつもの災害と逆境を乗り越えた今

 古滝屋は色々な歴史を経験しています。戊辰戦争では旅館が全焼。そして明治時代になって盛んになった炭鉱の開発で、温泉が枯渇するという出来事がありました。石炭1トンを掘るために、4トンの温泉が出ていったという話もあります。温泉が枯渇した時は祖母が小川や山水を汲みに行き、その水を沸かしてしのいでいたそう。そこから炭鉱会社との取り決めや炭鉱の閉山で温泉は復活し、温泉街もにぎわいを見せます。古滝屋も増築で14階の建物になり、一時期はいわき市で最も高さのある建物でした。

しかし2011年の東日本大震災では原子力災害に直面しました。夏までに入っていた4000人の予約がすべてキャンセル。港直送を売りにしていた魚介類の料理も原発事故の影響で魚が水揚げされなくなり、地元の食材が出せなくなりました。これには大きなショックを受けました。

 悩みが深くなると父なら、ご先祖ならどうしただろうかと何度も墓参りに行きました。
そこで感じたことがあります。震災はあったけれども、温泉は止まっていないし旅館が丸焼けにもなっていない。ならばこの地で役に立とう、と宿を継続することを決意したのです。1年4ヶ月もの休館を経て2012年7月に再開をしました。何かを失った時、先祖がやってきたことが、羅針盤になったのだと思います。私たちは300年以上この湯本でやってきました。いわきの宝である温泉を他の場所に持って行くわけにもいきませんし、ここに根っこがありますから

 震災直後からは津波の被災地や原子力災害の被災地を回る研修「Fスタディツアー」を立ち上げました。古滝屋を発着し、津波の被災地や原発で避難しなければいけなくなった場所を巡り、私がガイドを務めます。あの日、何が起こったのか? 変わってしまったものは? 現在の状況とは?を考えるツアーです。今も県外の大学生が学びに来ています。原子力災害を経験した浜通りから学ぶべきことがたくさんあるのだと考えています。

 また、2021年には古滝屋の中に原子力災害について伝え、考える場として「原子力災害考証館」をオープンしました。考証館には、福島県浪江町の商店街の街並みの変化を映したパノラマ写真があり、建物が取り壊されていった様子がわかります。その中には、浪江町出身の歌人の方のご実家だった、おもちゃ屋さんもあるんです。

わが店に売られし おもちゃのショベルカー 大きくなりて わが店こわす

という短歌の色紙もおかれています。

震災で7歳の娘さんを失ったお父さんが手掛けた展示もあります。娘さんは福島第一原発に近い大熊町で行方不明になったのですが、原発事故の影響でなかなか立ち入ることができませんでした。娘さんを捜すために通った海岸を再現した流木のオブジェの中に、娘さんの服やお写真が並べられています。お父さんは毎週のように考証館に来て、少しずつ展示を直しています。

考証館を作ろうと考えたきっかけは水俣病を経験した水俣市にある「水俣病歴史考証館」を訪れたことです。この「水俣病歴史考証館」は水俣病患者や家族の立場、「民」の立場から水俣病を伝える場所でした。

 福島県内にも、公的機関が作った伝承施設があります。その伝承施設もとてもよい場所だと考えています。さらに、民の立場で原子力災害を伝える場所があれば、より多様な視点で原子力災害をとらえることができる。こぼれ落ちた声を伝えることもできると考え、古滝屋の大広間を改装して、作ることにしました。それが福島に住む「土着人」の役割だと考えたからです。

古滝屋のこれから

 私は古滝屋の16代目なのですが、30代続くとして折り返しの一歩目なのかなと思います。今の古滝屋は築50年の建物です。「大きく、高く」という発想で作られた建物。この建物を維持するのにもお金がかかりますし、ただいつかは取り壊さなければいけないと思います。日本の人口も減っていきますし、身の丈に合った規模に縮小していかないかなと考えています。縮小はダウンサイジングとも言いますが、旅館を木造3階建てにして、自分たちで作るエネルギーで動かすようにしたい。江戸時代に古滝屋がオープンしたその時の姿に戻していく必要があると考えています。

 人口は減っていきますが、関係人口や交流人口は努力して増やすことができると考えています。湯本温泉は震災後様々な人が立ち寄るようになりました。ボランティアでいらっしゃる方。原子力災害の影響で帰還困難区域に一時帰宅する前に立ち寄る方。研修のためにいらっしゃる方。これからも、多様な方が集い、心と体を癒せる場所を目指していきたいと考えています。

写真提供=里見さん

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

東京大学教育学部卒業後、全国紙の新聞記者として広島総局・姫路支局に勤務し事件事故、高校野球、教育、選挙など幅広い分野を取材。民間企業を経て、2021年に株式会社オーナーを起業し、本教材「探究百科GATEWAY」を開発し編集長を務める。

目次